ヤマタノオロチと天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)

(一)

出雲から山陰線で西へ80キロ、石見神楽のふる里。 浜田には神樂の社中が50舎、石見と芸北では150社もあると知ってびっくりしています。パリをはじめ海外公演もされたとか、一時は途絶えかけていた伝統芸能を研鑽され、継承されていることは素晴らしい。神樂は真夜中の舞で、ヤマタノオロチ、蛇舞は子供に勇気と知恵を与え、やさしさを教えてくれます。インターネットの動画を見ながら昔懐かしい八調子の笛や太鼓の勇壮なリズムに俄に 小村のガキンコにかえったような気持ちです。子供のような興味と疑問を綴ってみました。
そう云えば、子供の頃小さな大蛇を捕えたことがあります。毒蛇、マムシです。崖の草叢に手をやってあわや素手で掴みかけました。たしか小学4年生でした。これを放っておくと村の人の夜道が危ないと考え、家に帰り竹棒の先を割り、とってかえして草叢から放り出し、首を押さえて生け捕りにしました。竹に巻きつけて歩いていると、村では見かけない通りがかりのオッチャンが「ワシにおくれ。いいかい」と念をおすなり首筋から皮をベリッと剥ぎ、薄ピンクの肉にピクピク動く青い玉の部分を親指の爪でピッとむしり、パクッと飲み込んで蛇はそのまま荷袋に入れて立ち去って行きました。「凄い」、その時の印象です。証拠も何もなかったので親にも誰にも黙っていました。青大将とか山カガシは逃げろ逃げろと田や山へ追い立てました。そんなことを想い出しながら、この歳になって振り返って考えてみますと、ヤマタノオロチとは一体何なのか、ニシキヘビでもない、頭が八ツ、角のある大蛇とは、龍のようでリュウとは云わない。石見神樂社中で古代歴史に詳しい方がおられれば、是非、尋ねてみたいと思うのですが。
(古事記現代語訳 須佐之男命の大蛇退治参照)
まず


1 オロチとは何語なのでしょう
2 蛇が大きくなると角が生えるのか
3 長い髭が伸び、尾鰭がつき
4 南国の大蛇が雪の多い出雲の山奥に棲むとはどういうことでしょうか
5 おまけに大酒飲みで
6 美人が大好き。これまでに姉妹七人を喫(く)う
7 記紀によれば、目は熟れたホオズキのように真っ赤で、
8 身は一つ、八頭八尾、八ツの渓谷に股がる大きさで、背中には杉や檜が生えているとは、これはオロチに仮託した神話ですが、一体何を意味しているのでしょう。
そして、
9 オロチを退治して寸断したとは。既に死んだ大蛇をスサノオの持つ「韓鋤(カラサイ)の剣」が毀(カ)けるほど切りキザム必要があったのか。
最後に、
10 中尾から、それまでに見たこともない不思議な剣が出てきたとは。それは硬い角の化生でも、胴腹からでもなく、何故シッポに近い中尾からなのか、誠に不思議です。

 オロチの居る上には常に雲気あり
その長剣は天叢雲剣と命名されて天照大神に献上されました。八咫鏡、勾玉と共に一時期皇室の三種の神器となっています。近年の古代史研究では天照は卑弥呼に比定されていますから三世紀半ばのこととなります。宝剣はその後ヤマトタケルの草薙剣として熱田神宮に安置されますが、ある時四、五人の社家、神官がその宝剣を現実に見ていると云うことです。神話ではない、その記録が残されています。玉籖集(ギョクセンシュウ)裏書きより(謎の三種神器、鏡・剣は仿製超大型銅製品か⁉ 同志社大学森浩一教授)刀剣は赤土と石盤で囲って楠の木箱に納められていました。菖蒲型—直刀です。二尺八寸—銅製にしては長い、銅製ならば日本国中に数多く有り「異(アヤ)しき物」とは言えない。白銀色—これは鉄剣です。銅剣であれば黄金色、白銅或いは錫の鍍金、銀?—鉄剣以外では焼津の原で倭健命が難を逃れるため向かい火を放って沼の蘆や菰(マコモ)の原を切り開くことは容易ではない、据物切りは案外難しいことです。惜しいことに源平の合戦で9歳の安徳天皇と共に壇ノ浦の海底深く沈んだことになっています。
さて10の質問のうちオロチのシッポに近い中尾から出てきた剣が鉄剣であれば、物語の設定は、出雲山奥の小さな神話ではなくなります。中国山脈全体のこととなります。何故なら、まず、鉄は西からであり、天叢雲剣が出雲地方で鍛造されたものとするなら、大和の王権がその精錬と鍛造地を見逃す筈がない。刀剣の鍛造には莫大な薪と玉鋼とそれなりの技術が必要です。そして四天王寺に伝わる聖徳太子佩(ハイ)刀の丙子椒林剣(ヘイシショウリンケン)までの三百六十年間、日本刀の歴史の空白は考えられないからです。それとも仮に舶載品であるなら建国の証である神器とはなり得ない、それは戦利品です。鍛造地は中国山脈の大和政権の目の届かないどこかにあった筈です。

(二)

 島根半島出雲には隠岐島の黒曜石があります。黒曜石は太古より弥生時代まで動物の皮を剥ぐ道具や武器として最良の刃物でした。近年まで医療用のメスとして使用されていました。又、出雲地方は早くから開けていますが、青銅の文化です。荒神谷遺跡から358本もの銅剣が発掘されています。青銅の合金は錫で、錫は芦や稲科の植物に付く金属で、地元に宍道湖があります。又、鋳造は大がかりな溶融炉と送風、鋳型など場所と人手を要しますが、王権はそれが可能で武器は均一大量に制作出来るため、敢えて未知の鉄剣を模索する切実な必要もなかったことでしょう。
銅については中国夏・殷の時代、四千年も前から使用されています。銅の溶融点は千百度、陶器を焼成する温度で鋳造出来ました。一方鉄の溶融点は一五二五度です。鉄はヒッタイト、今のトルコ民族、東アジアへはダッタン人が伝え、それがタタラとかテツの語源であると云われています。殷が安陽に都した時代、BC13世紀に隕鉄(隕石)による可鍛技術があり、武器の刃の部分に使用されていたことが知られています。西周末期BC8世紀には塊錬鉄で中国最古の人工鉄による短剣が報告されています。可鍛鉄は七~八〇〇度で加工が可能です。日本伝来はBC100年頃、弥生時代後期で部族共同体の首長が掌握していたと考えられています。出雲村、通称金屑山のタタラ炉跡、松江市柳原、標高200メートルの花崗岩中に溶融炉跡が確認され、共に弥生時代後期のものとされています。ただし、出雲の砂鉄は褐鉄鉱ですので日用工具、農耕機具の刃、鉄戈(テッカ)、鉄鏃(テツゾク)であったと考えられます。
小型複動式 鞴(フイゴ)はBC四世紀、中国戦国時代に発明されたと天工開物は記録しています。これによると小型でも一三〇〇度は可能、タタラの発達と経験で鉄鉱石から銑鉄、砂鉄から玉鋼が得られれば後は比較的低温で小集団での刀剣の加工、鍛造が可能です。鉄の鍛造技術を伝えたのは新羅の天日槍(アメノヒボコ)であると云われています。三世紀頃のことです。兵庫県出石に日槍を祀る神社があります。天日槍或いは日矛とも書きますが、兵神ではなく、天(アメ)は海(アマ)で渡来人のこと、ヒボコは火の祠で鹿革の鉢巻をして鞴を踏む火床の鉄穴師を指すのでしょうか
日本書紀 垂仁 二年の条に「額に角のある人」として、船に乗り越国の筒飯(ケヒ)の浦に泊まり、意富加羅国(オホカラコク)の王子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が来日したことを記しています。他の条項からツヌガアラシトとは天日槍(アメノヒボコ)のことで朝鮮系製鉄氏族であることは多くの人が指摘しています。そして筑前風土記の逸文には「高麗国の意呂山(オロヤマ)に天下りし日杵(ヒボコ)の苗裔(スエ)五十迹(イトテ)是あり」とあり、天日槍の子孫が博多湾糸島半島に住んでいたことから、天日槍は北九州に上陸の後、鉄を求めて日本海を東進したと考えられています。意呂山とは朝鮮慶尚南道日本海沿いの蔚山のことで、蔚山一帯には鉄山、溶鉱炉、鍛治のあとが何百とあり、オロとは荒れた土地、泉のある山岳を意味すると云われています。播磨風土記ではオオクニヌシと戦ったことが記されて、火槍は但馬に炉を築いた弟子を咎めますが、そこに自分を祀る約束を聞いて許し、再び良質な砂鉄を探す旅に出たということです。これらのことが一つの答えを導くこととなります。
中国山脈は良質な磁鉄鉱、砂鉄の採取地でした。幾筋か山脈を北に流れる主な河川、渓谷の採掘場とタタラの炉、そして小鍛冶につながる技術と利権、それこそヤマタノオロチの目は赤加賀智の如く真赤に燃えるタタラの炉で、八頭八尾、八ツの渓谷の山峡に棲むとはこのことだと言えます。ところが、赤加賀智の如く真赤に燃える鉄精錬の古代炉遺跡が神話のふる里。鳥髪山、船通山付近にはなかなか発見されません。さきの金屑山炉跡は北に20キロの松江、安来に近い。出雲、安来には和鉄記念館があり、今では和包丁の高級刃鋼は安来鋼が一番で、玉鋼の発祥の地となっていますが、それは後のことです。よく聞かされる斐伊川の水が大蛇の腹のように赤く濁ったというのは野鑪(のだたら)から高殿(たたら)が築かれた鎌倉時代、江戸幕府の庇護を受けた慶長年間に盛んであった鉄穴流(カンナナガ)しによるものでオロチの中尾から出てきた鉄剣の時代とは大きく異なります。最も古いタタラの古代遺跡はやはり西日本で弥生時代の鉄器、斧、鉄鏃などの出土数は統計からも広島、山口、福岡に多いことがわかっています。


1 広島県三原市 小丸遺跡 円形炉 径50センチ・深さ25センチの遺構 3世紀 一九九五年の発見
2 福岡県添田町庄原遺跡 金属溶融炉 鉄かは不明 BC2世紀
3 壱岐カラカミ遺跡 鉄の地上炉跡 弥生時代後期 二〇一三年発見

等の炉跡が確認されています。又、日本刀の古鍛冶場は出雲、山陰側には見つかりません。それは野外タタラの時代、天候が大きく左右しました。百日の晴天は出雲、日本海側では難しいことです。それでは天叢雲剣が鍛造された場所は中国山脈のどの当たりに見当をつければよいでしょうか。但し、何故か山陽側には褐鉄鉱赤目鉄が多い。

(三)

 島根県地図を広げ、大阪四天王寺夕日ヶ丘から中国山脈を眺めてみます。それは丁度飛鳥の畝傍山(ウネビヤマ)(198m)から見る方向に当たります。夏至の太陽は山脈の東、六甲山の兜山の向こうに沈んでゆきます。雲の切れ間に見える夕日は真っ赤に燃えるオロチの目のようで山脈に沿って長く横に棚引く雲ロールは竜蛇の胴のようです。それを重ね合わせると松江の宍道湖はオロチのクチ、島根半島は頭部で三瓶山に沿ってくねり、石見金城(カナギ)と広島の加計(カケ)辺りで胴を一巻き、岩国は掉尾となり、島根県地図はあたかもオロチの影絵のようです。そのオロチのシッポ辺り、中尾を割いた中尾とは丁度浜田と芸北に当たります。芸北の加計町は古くから太田川に沿った鉄の町で須佐男命は加計の村に降り立ったという古文書があったことを日本書紀は付記しています。そして磁鉄鉱のなかでも真砂と云われる最高品質の砂鉄の採れる処は浜田川の上流、石見南東部です。安佐山、大佐山、大麻山、波佐、久佐郷など、サのつく山里のことでしょうか。昭和四十一年北里大学の立川教授は出版された「鉄」の本に古代刀匠の聞き書きを残しておられます。
「山陰地方の真砂(マサ)は鉧(ケラ)と呼ばれる鋼の原料に最上」で「真砂は花崗粗面岩などの酸性母岩中に産し、伯耆の南西と石見南東部の山中に多く、磁鉄鉱を含み純度が高い」
伯耆の南西とは石見国邑智郡、江ノ川の中流域西側、出羽(イズハ)、矢上(ヤガミ)に当たります。但し、出羽は雲母岩で大日本地名辞典で「山陰鋼貿易備考に曰く」とありますから、江戸時代以降掘鑿によるものではないでしょうか。同じ地名辞典で、石見東南部で砂鉄の採れた場所は大麻山南麓、大糞山(オオグソヤマ)です。近年まで井野村の人達は農作業の合間に砂鉄を採取していました。大糞山は花崗粗面岩で良質の砂鉄であった筈ですが、アゴメと呼ばれています。赤目鉄であれば刀匠は更に良質の真砂を探し求めたでしょう。鉄の素性は地質にあると云われます。それは水質にある筈です。浜田川の上流金城の水は古老の語る全国でも最上の水質です。但し、酸性ではない弱アルカリイオン水です。金城の水は近年モンドセレクションを連続受賞しています。(株)メイラク、褐色の恋人で知られるスジャータの水質波動研究所では折り紙付きで金城の温泉は美肌県日本一位、ポーラ化粧品のニッポン美肌県でグランプリ、化粧品会社「姫ラボ」でもしまね美肌温泉手帖人気で金城は一位です。久佐郷金城を水源として流れる浜田川はもと石川と呼ばれていました。石(イシ)は生死(イキシ)を意味し、神聖を表します。丁度川筋が山間から流れ出て市街に入る辺り、黒川町の黒は神の恵み、砂鉄の色ではなかったか。そう思うと小学生の頃セルロイドの下敷きに立つゴマのような黒い砂鉄を思い出します。浜田会事務局のホンゴウさんは浜田市街育ちで「どこから拾ってきたのか砂鉄の黒いカタマリを友達に見せていた男の子がいた」とのこと。高句麗、新羅渡来の刀工がこの浜田湾と川の砂鉄を見逃すでしょうか。真砂を加熱鍛造して鈍く青黒く銀色に光る刀剣は神の化生です。オロチの中尾とはこの神域ではないか。浜田川の上流金城から芸北での日本書紀神話一書(あるふみ)に曰くは現実のことなのですが— 久佐郷金城の鉄は次回に譲るとして、韓半島側から鉄の需給を見て見ると。  『三国志』「魏書、烏丸鮮卑(ウガンセンピ) 東夷伝 弁辰条」著者 陳寿 には「国 鉄を出す、韓(カン)、濊(ワイ)、倭(ワ) みな従りて、これをとる。諸市 買うにみな鉄を用い、中国で銭を用うるが如し。またもって二郡に供給す」とあります。弁辰は弁韓、辰韓のことで弁韓は韓半島の最南部、日本に一番近い場所です。辰韓は東、馬韓は西、濊は北に位置し、後の百済、新羅勃興の母体となります。倭とは、まず北九州、西日本一帯を指し、その需要目的は農地開墾の農機具の刃でした。その鉄が見事な日本刀となる技術 天叢雲剣は誰が鍛造したか、ここで刀剣の歴史から追ってみましょう。

浜田市金城町波佐ネット通信たたら製鉄参照

(四)

日本で見られる最古の鍛造鉄剣を順に
1 舶載品 鍛造 鉄刀
「中平年銘  環頭大刀」 2世紀 金象嵌銘 全長110センチ 後漢一八四~一九〇年製
 天理市東大寺山古墳三五〇年頃築造出土 東京国立博物館蔵
「七支刀(シチシトウ)」 四世紀 金象嵌銘文  造百連鉄七支刀 刃長65センチ 全長74・8センチ
 新羅進駐の時三七二年百済王よりの貢物  三六九年製 天理市石上(イシノカミ)神宮の神宝
「獲加多支鹵大王(ワカタケルダイオウ)  一一五金文字の大刀」 5世紀
 四七四年中国南朝の宋に遣史した倭王武のことで雄略天皇四五六~四七九年に比定される。
 ワカタケルは漢代の書「西京賦」から採字された呼称。埼玉県稲荷山古墳出土。
 福岡県船山古墳出土の銀文字の大刀と同型。
 ここで日本書紀より、7世紀、推古二十(六一二)年正月、拝賀の宴席。大臣蘇我馬子が天皇に捧呈したことほぎ歌に対する女帝の返歌があります。
 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば日向の駒 大刀(タチ)ならば呉(クレ)の眞鋤(マサビ)という一句です。呉は高句麗のことで眞鋤はスキのように先の広が った剣、蘇我一族の勇敢さを称えた言葉です。このことから当時まだ日本の鉄の精錬技術が高句麗に及ばなかったことがわかります。
2 古代
飛鳥 奈良時代  「丙子椒林剣」 7世紀  丙子の年六十六年、椒林作直刀
 四天王寺伝来、聖徳太子佩用と伝えられています。
 兵庫県養父郡八鹿町箕谷2号墳出土の銅象嵌戊辰年銘大刀、六百八年作刀と酷似するところから、国産説有力  養老律令に軍器を営造せば年月、工匠姓名を記すことと定められます。
「水竜剣」
 片刃内反りの直刀 無銘 制作年不詳。(この刀剣こそ天叢雲剣の素型ではないかと。)
 明治天皇の愛刀、東京国立博物館所蔵、国の重要文化財。聖武天皇の佩剣と伝えられる。
 もと正倉院に刀身のみ所蔵されていたもの。明治天皇が所望され、外装を拵え、銘を与えられた。
 金製金具、梨地瑞雲双龍紋。 他に正倉院御物五五振り 8世紀
3 古刀
平安時代
「童子切安綱」 10世紀 天下五剣の一 刃長80センチ 反り2,7センチ 伯耆安綱作
 大江山の鬼退治、 酒呑童子を退治した源頼光(九四八~一〇二一)の持ち物。後、織田信長の所持ともなる。 国宝 東京国立博物館蔵
 「三日月宗匠」  11世紀  天下五剣の一 刃長80センチ 反り2,8センチ
 国宝 東京国立博物館蔵  伯耆宗近作  11世紀末
 足利将軍家の家宝 豊臣秀吉から高台院(北政所おね)が出雲尼子家の忠臣、山中鹿之介に譲る。
 刃縁に三日月の紋様が浮かんで見え、「吾に七難を与えよ」で少年に人気があります。
 「大包平(オオカネヒラ)」  11世紀 刃長89,2センチ 反り3,5センチ 東京国立博物館蔵  備前国包平作 平安時代  唐宋八大家の一人欧陽脩に次の詩があります。

日本刀歌

     
  • 宝刀近出日本国   近年日本という国から宝刀が産出する。  
  • 越賈得之滄海東   杭州商人が海の東の彼方から仕入れてくる。  
  • 魚皮装貼香木鞘   香木に鮫の皮を貼りつめた鞘、  
  • 黄白間雑鍮与銅   金銀黄銅をちりばめた拵え。  
  • 百金伝入好事手   愛好家は金百両(約三キログラム)を惜しまず、  
  • 佩服可以禳妖凶   腰に帯びれば妖怪を払うという

日本刀が絶賛されています。拵えの装飾性は勿論、技術、腰に帯びれば以って妖凶を払うべし、とは刀身の神秘性、中華思想の強い詩人によっても日本刀の放つ精神性が高く評価されています。GHQ総帥マッカーサーは「大包平」の地鉄と波紋の気品ある刀姿に魅了され、姫路城主池田輝政公に是非とも譲り受けたいと願ったが、「自由の女神」と交換と言われ断念。日本は戦いには負けたけれども魂までは渡せないというお互いの立場を考えた粋なエピソードです。
鎌倉・室町時代までの日本刀を「古刀」、幕府の庇護を受けた江戸時代以降を「新刀」、幕末を「新々刀」、明治以降を「現代刀」と呼んでいます。刀剣鑑識によりますと、江戸時代以降、現代の刀工が近代科学と江戸時代の秘伝書をいかに駆使しても古刀の魅力に迫れないということです。それは両者を比べて見れば素人でも一目瞭然であると云われます。それはやはり唯一鉄の素性にあるとのことです。伝世の名刀がどこの砂鉄を使われたか、一振り一振り確定することはできませんが、天叢雲剣が古代刀、古刀に優るとも劣らぬ玉鋼の刀身であったこと、—天武天皇の病が平癒しないのは件の宝剣が熱田神宮から帝都に還されたからだと史書は伝えています。四五〇年余りを経て尚放つ霊気は名剣であったことを語るに充分です。—最高品質の砂鉄を求め歩いた刀工が鍛造した剣は浜田産の砂鉄、真砂であった可能性を推考するところです。
ではそれは誰が鍛造したのでしょう。技術的に考えられるのは天日槍の集団です。あとさきはあっても高句麗、新羅の刀工でしょう。倭国の大乱で彼等が去ったあと、その技術を知る者は少ない。それが360年の空白と考えられます。3、4世紀の頃の作刀で、新羅時代、韓国慶州皇南大塚から鐶頭鉄刀84,5センチの直刀が発見されています。それが中国からの下賜品か新羅産かわかりませんが、隍城洞遺跡の鋼造りは溶融銑鉄に磁鉄鉱粉末を添加して反復鍛打する「炒鋼(ショウコウ)製品」で刀剣類の素材となる「百練鋼」の炉であったことが八幡製錬所技術研究部門で四十年間勤務された研究者からの報告があります。その資料には弥生中期の島根の国竹遺跡から炒鋼製品の板状鉄斧、朝鮮半島産?の記録もあります。逆に中国での炒鋼炉検出は不鮮明であるとも。そのことは日本の古墳で発見された中国舶載品鉄刀の刀身に金銀象嵌があることを見てもわかります。例えば本焼きの包丁に鏨で銘を切ることは出来ません、硬くて割れます。包丁の峰に極軟鉄を使う本カスミの包丁では可能です。中国舶載品鉄刀の表裏に見事な文字が彫られていたということは百練鉄といえども軟らかい鉄だから出来たことです。「炒鋼製品」は高句麗、新羅刀工の錬鉄玉鋼への探究心を見る思いです。
 余り専門的なことは別に、ここで、ただ一つ心残りはヤマタノオロチに喫われた七人の女性の犠牲とは何でしょう。鉄山には火のミコを祀る金屋子神があると聞きます。心臓の鼓動のような赤い鉄の塊、鉄は高純度になる程軟らかく酸にとけない。さびない性質が確認されています。しかし、七度折り返し鍛錬加工することによって強靭となります。数トンの松材と手吹き鞴で熱し、焼きすぎず、打ちすぎず、やさしく餅をこねるが如く鍛造してやることが名剣を生む秘訣であると聞きます。金屋子神を祀る一子相伝の呼吸、焼入れの熱い吐息を七人の乙女への鎮魂としたい。そこで気になるのは正倉院御物五十五振りの刀剣で、一振りは無銘、直刀、聖武天皇の佩用と伝えられ、剣身のみ残されていたため明治天皇が所望、鞘柄外装をしつらえ水竜剣と銘されました。これこそ熱田神宮の神官が垣間見 語り継がれた天叢雲剣の素型ではなかったか。そして天叢雲剣は本邦初の鉄剣で浜田産の真砂芸北加計での鍛造である可能性を強調しておきたいと思います。

(五)

さて、それではオロチとは何なのか、虎や狼ではグツが悪かったのか。言語学上のオロチは「荒れ果ててけわしきところ」の意であると考えられています。しかし、どの国語辞典でも「大蛇」です。ただ広辞苑第二版でオロは奈良時代の東北方言で「山岳」の意、チは古代語で「神」となっています。つまり、ヤマタノオロチは8本の河川が北に流れる、中国山脈の「山岳の神」となります。山岳の神が鉄山で産出する鎌や鋤鍬(スキクワ)は農作業にとって神の手です。その山岳の渓流が洗い出す砂鉄と山上の治水は農作物の生命です。前出の高麗の意呂山(オロヤマ)には熔鉱炉と鍛冶場があり、その高麗北部にはオロチョン族が暮らしていました。ツングース系タタラ族狩猟民族ですが、鏃(ヤジリ)と銛(モリ)、ナイフは生活の必需品です。鉄を求めて南下し、朝鮮半島で争いが起これば捕虜難民が出ます。一衣帯水の中国山脈に入り、農事に同化し、オロチョンをオロチと訛ったのでしょうか。江の川上流 三瓶山麓 南西 邑智郡のオチは地名辞典で「よくわからない大内にやあらん」と書かれていますが、或いは鉄山の多い地域で山麓高原の稲作に同化して暮らすうちオロチの言葉が残ったのかもしれません。
 1、オロチョン族を北にたどると黒龍江に達します。その下流域、ハバロフスク、アムール河岸の岸壁に菱型図形で蛇体だけの壁画が報告されています。明らかに信仰の対象ですが、ロン、ルンとは云わずムドウルです。種族も異なります。隣接して暮らす種族はオロチ族です。しかし民族に伝承される動物は白鳥と鴨、水鳥でした。
2、高句麗の西、長白山脈を越えた遼河流域には六千七百年前からコウリャンや麦を主食とした紅山文化が開けていました。紅山文化遺跡から精巧な翡翠の猪龍の玉器、豚龍の腕輪等が発見されています。蛇体ですが頭部は豚で生活になくてはならない家畜です。龍の玉器としては世界で一番古いものです。それらは猪龍ズーロン、豚龍トンリュウと訳されています。しかし、それが先入観なしに龍と言えるのか。翡翠の原石は遠くトルコのカザフスタン、西域のホータンです。
3、それから四千百年前黄河下流域二里頭、ここでは稲作と麦、粟等五穀です。夏王朝の遺跡から二千個余りのトルコ石、緑松石で象嵌された竜杖が発見されています。夏は禹(ウ)が建国した王朝なので禹杖と云うべきでしょうか。禹は黄河の水の精 大トカゲのことです。大きな頭部で、角は見当たりません。
4、又、三千三百年前の殷虚からは龍の甲骨文字が発見されています。その一例は古代人が、捉えた竜の自然現象で虹、コウです。刻文には白昼一天俄かに掻き曇り、驟雨の後双頭の竜が虹となって現れ、大河の水を飲んだことが刻されています。これは凶事であり、大洪水が起こると怖れられていました。一般的に竜は角のある蛇の象形で表されています。
 1〜4、遺跡があることだけでオロチョン、オロチ、意呂山、そして竜ロン、の言語学上の関連は正しく説明できませんが、人々が暮らした山岳と水源、主として稲作から遠く雲南、アッサムに至る竜のふる里にそのつながりを求めることは出来ます。数千キロの距離があるとは言え、高原や山岳には苗族、姜族の移動生活がありました。又、日本列島から揚子江、雲南、チベットに至る全長五千キロに及ぶ照葉樹林文化のつながりは今では広く知られています。雲南貴州省清水江の竜頭舟競艇を長崎でペーロンと言い、渓流と瀧の多い山岳の茶畑で生活する人の中には自分達のことをロンと云います。谷間の人の意ですが竜の仲間か使いなのか、末裔か、この辺りが竜ロンの濫觴(ランショウ)です。そこから北九州西部、北松浦半島 島原半島 熊本県菊池地方では日本最古に属する米粒や、その、圧痕が発見され、福岡県板付には二千五百年前の日本最古の水田遺跡があり、中国山脈岡山には最初期の棚田跡が確認されています。又、雲南省茶葉古道の銘茶は日本の禅寺で只管打座、堂宇の蟠竜は知恵の雨を降らせて人々の悟りを開いています。雲南省からメコン川を遡上、長江上流に沿って北上すると黄河との分水嶺 青海省に至り星宿海(オドンノール)には 崑崙(コンロン)の玉があり、竜の掴むその宝珠には全知全能の力があると云われています。これは気の遠くなるような話です。ここでは川を下り竜の原初の姿を求めましょう。
 原始焼畑農業は山岳の斜面を焼き払って畑を作り数種の雑穀の種を蒔いて その内から一番収穫の良い稲を選んで育てました。段々畑棚田をつくり、水をはって栽培することを体験的に知り、次第に湿原に広げ、同時に雨乞いの風習が生まれました。旱害は一族の生死に拘わります。山岳から湿原へ広がった稲作は逆に山上の水源に水を乞い求めることになります。山上に雲を呼び 水を招くであろう水棲の生き物で一番生命力のあるのは蛇、チカラのあるのはワニ、生活に密着したのは水牛で、ここに竜の原型があります。地震と洪水を起こす湖沼のナマズもいました。竜は身近な動物の力を頼む祈願信仰の習合が具象化、大小透明 変幻自在に寓話化されたものでありますが、既にワニ、トカゲ、ヘビとは異なります。それは人類の祖先が猿でないこと以上に違いは進化しました。では、稲作に同化したオロチ、オロは荒々しい竜骨の山岳と鉄山の鎚音を意味し、チは山岳の泉の神、しかし ミズチの蛟 虯 离(コウ キュウ チ)で鱗皮は同じでも、背ビレ、角、手足のもとがあって、蛇 虺(ジャ カイ)毒蛇とはならない、オロチは地鳴りと火を吐く未完の竜です。

(六)

初期大和政権が編んだ古事記の原本ではオロチは音訳で「遠呂智(オロチ)」、中に一字、蛇も見られますが日本書紀では意訳で「大虵(ダイヤ)」となっています。虵(ヤ)は蛇(ダ)の異体字、蛇蝎と嫌われたサソリの象形文字です。しかし、オロチの居る上には常に雲気あり、山岳の神オロチには八雲立つ岳雲に雨乞いの意があり、雲を起こし慈雨を齎(モタラ)す水神、支那大陸の竜と同源です。ところで石見神楽のオロチの頭部はたしかに蛇ではない神獣の竜ですが、手足がありません。蛇身です。共に水の精ですが、竜には手足があって雲を駆けり天に昇ります。竜には一万年の歴史があります。三千年前の中国では竜は飛竜となり、更に昇って「亢竜悔(コウリュウク)い有り」という哲学的な言葉まで使われています。日本書紀で「大虵」と意訳されたのは編纂者の面子が反映されているようです。日本書紀は渡来系の人が意訳しています。初唐において竜は玉座の象徴でした。天子の瑞祥である竜を悪者として成敗される物語には心情的に同意できなかったのでしょう。後漢光武帝の賜印は金印蛇紐です。彼等のその視線の先には志賀島があったのでしょう。 雲南省滇王の金印と共に蛮夷を蛇に例えるのは前漢以来チャイナの伝統です。
 オロチは大蛇か竜か、古事記が編纂されようとした時代、初期大和政権としては苦慮したと思います。壬申の乱と白村江(ハクスキノエ)の戦いの傷跡が残り、天武朝にとって西の空に暗雲はおだやかではない。出雲石見の勢力に配慮しています。オロチ神話は中国地方全体のことでありながら、出雲の山奥の小さなトラブルが脚色されています。物語の発端は櫛名田比賣の結婚でした。本来なら喜ぶべき話ですが、彼女の家系は国ツ神の子孫であることから当時としては狩猟採取民で、祈祷師の筋であったと云えます。上流から箸が流れて来て人家があることを須佐之男は知りますが、易占の筮竹(ゼイチク)・筮萩(メドギ ハギ)のことでしょう。シャーマンの家系であれば当然氏族関係が重視されます。一方、高志のオロチの部族の人達は古志とも書き越(エツ)のことで、雲南ロード、南方稲作民の系統を引き、「歌垣」の風習があります。これは出雲に今日でも古志の地名が残り、伝説と重なります。年に一度祭りの日には誰とでもよい、好きな人と結ばれなさいという結婚観の違いが決裂の大きな原因でしょう。とは言え、歌垣の夜、たらふく酒を飲ませて闇討ちとは少々寝覚めが悪い。余程親分衆、首長は横暴で評判が悪かったのでしょうか。稲と鉄で古志のオロチは財を貯え横柄であったかも知れません。善良な村人を巻き込んだ戦いには遺恨が残ります。歌垣の夜の闇討ちは或いは賢明というべきでしょうか。それからオロチを寸断して天叢雲剣を天照大神に奉ったというのは、出雲石見の人々の魂が新しく生まれ変わる「御生(ミアレ)」の思想ととることが出来ます。
須佐之男は新羅から50人の猛士と共にやって来たと風土記は伝えています。歴史資料に時差があり、天日槍とのかかわりは不明ですが、スサは砂鉄を意味し、共に製鉄に従事する男性集団と解されています。彼等の目的は武器としての鉄でしょうが、中国山脈の鉄は本来稲作民の鋤や鍬、農機具です。農機具と武器、鉄を制するものは国を制します。稲作と鉄の山岳の神ヤマタノオロチは記紀の神話を彩りやがて、倭国の大乱を経て歴史は神武東征へと収束されてゆきました。ヤマタノオロチは出雲の国譲りと奈良大和に王権を導く乗雲飛竜となって現在は南紀熊野、龍神温泉の主となっていると云う事です。龍神は春分には春霞となって棚引き、夏には入道雲となり、実りの秋にはウロコ状の雲と広がって秋分を祝い、再び潜竜となります。虎や狼は水神にあらず、瑞穂の国の神話の主とはなりえなかった。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 

須佐之男命は櫛名田比賣と出雲熊野大社に祀られています。喜びと希望の歌は日本の和歌のはじまりということになっています。

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ここでこれらの出来事を誰が四百年後の大和飛鳥で太安万侶、稗田阿礼に話をしたか、当時二人は三十歳前後の新進気鋭の青年でした。それは石見浜田、下府か周布に砂鉄生産の朝集吏として赴任していた歌人、彼等より十歳年上の柿本人麻呂であったと私達は言うことが出来ます。人麻呂は出雲地方に直接足を運んだという記録はありませんが、壬申乱後九歳であった子息の躬都良(ミツラ)が隠岐嶋に流されています。大和から北西の空にせめて元気で楽しくとの親の想いは片時も脳裏をはなれなかったことでしょう。「八雲立つ」和歌のたたみかけるような回文調にはどこか人麻呂の風韻があります。
 最後に、もうひとつの神器である勾玉について民族史家は狩猟民族の武威を示す狼の犬歯の形であるとしますが、首飾りにこそなれ獣の牙が神器とはなり得ない。実は、六千年前の玉竜の凝縮で永遠の命、全智全能の象形であったかもしれません。気になるのは全智全能の竜に何故角があるのか、天に昇り水に潜り闘うに利なし。天帝の怒りとは、それは京都鹿ケ谷泉屋(センオク)博古館の世界でも珍しい青銅器をもとに皆様の叡智を得て次の機会に考えてみたいと思います。

               

 又、現存最古の真福寺写本、古事記の序文には「剣ヲ契ヒ虵ヲ切ル」とも書かれています。序文は天武十年の古事記編纂事業発案後、聖武天皇の時代に三十三年を経て上程されたものです。その時期には日本書紀が精力的に編纂されており、白村江の戦いでの傷跡、危機が去って出雲石見族に対する目線が変わったのでしょうか。太安万侶の心に「雲州石見族はサソリかヘビか」との複雑な思いを感じます。蓋し、オロチはあくまで遠呂智、火を吐く未完の竜です。神楽を舞われる故里の人達にとってもそのほうが美しい。

 

 参考図書

1、「鉄—塊の鉄が語る歴史の謎」 北里大学教授 立川 昭二 昭和41年7月   学生社
2、「シベリアの古代文化」 アレクセイ・オクラード・ニコフ
          加藤九サク 加藤晋平訳   昭和49年8月16日     講談社    
3、「青銅の神の足跡」 谷川健一                       集英社
4、「古田史学会報」  no,120 no,124 no,128   昭和63年・平成26・27年
5.「照葉樹林文化と日本」中尾佐助、佐々木高明   平成4年4月      くもん出版    
6、「古代の鉄と神々」 住吉大社宮司 眞弓常忠     平成9年11月      学生社  
第22回 「国家と鉄」の謎にせまる         平成21年10月     朝日新聞
大阪府立弥生文化博物館 会館25周年記念 平成28年度春季特別展
   鉄の弥生時代 ー鉄器は社会を変えたのか?—  平成28年4月23日~6月19日 
春季特別展 考古学セミナー     主催  大阪府立弥生文化博物館    産経新聞社
第1回「ユーラシア大陸における鉄の発展史と弥生時代の鉄」     
第4回「弥生の鉄、マクロ、ミクロの世界から材質・履歴を考える」                           平成29年 9月 27日

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